由緒と歴史
本殿と彫刻
左側にはマリア観音様、右側にはマリア様に懇願している人の姿にも見られる彫刻があり、隠れキリシタン信仰の地であったことをうかがわせます。
西暦1601年頃(関が原の戦いの翌年)中山城の武将清水三河守康徳が信州諏訪大名神を勧請したと伝えられています。
建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)大国主命の息子
武運長久を祈るも、土地を拓き農蚕機織の神であり、養蚕の盛隆に伴い養蚕の神としての信仰を内陸一円より集めるようになりました。蚕は「運の虫」とも呼ばれ、飼育は天候に左右され、当時は神頼みであったため、その信仰の大きさが本殿の彫刻にも顕れています。